『みんなの寄付金で日本初のスタジアムをつくる』
そんな構想が持ち上がったのは、2008年のことだった。いや、厳密に言うとクラブ内では2000年頃から中・長期計画として『新スタジアム建設』が挙げられていたという。1991年にガンバ大阪としての歴史が始まり 、Jリーグを戦うようになって10年近い月日が経とうとしていた中で、スタジアム関連の増収を図ることが安定的なプロスポーツクラブの経営に繋がると考えていたからだ。当時の常務取締役だった桑原志郎が回想する。
「勝負の世界では当然『勝つことが人を呼び、利益を生む』ということが当たり前の構図としてあります。ただ、チームは『生き物』です。どれだけ大きなお金を投じて選手を揃えたとしても、長いシーズンではケガをすることもあれば、思うような結果に繋がるとも限りません。それは、92年に始まったガンバのJリーグの歴史を見ても明らかでした。であればこそ、我々運営会社に求められるのは、チームの結果、成績に左右されない安定したクラブ経営です。ということを考えた時に、将来的にはクラブが積極的に運営にも関わることで収益を見込めるホームスタジアムがマストだと思っていました。それを具体的に計画書として提案したのが2000年です。当時のJクラブの各スタジアムを参考にしながら、そこに『感動は距離の近さと比例する』と記したのを覚えています。私自身、いろんなスタジアムに足を運ぶ中で、スタンドからピッチまでの距離が近ければ近いほど、ゴールを決めた時の熱狂や勝利の感動が色濃くなると考えていました(桑原)」
もっともそうした考えのもと『5ヵ年計画書』を作成し、行政などにも実際に足を運んで建設の可能性を探ったものの八方塞がりで、現実的に話が進むことはなかったという。ただ、一方でチームはといえば、2000年頃から少しずつ右肩上がりの成長を遂げ、2005年にはクラブ史上初めての『Jリーグ制覇』を実現し、『常勝軍団』に名乗りをあげる。それを機に『タイトル』の歴史を積み上げていった事実は、再びクラブ内での新スタジアム建設への気運を高めた。
その先頭に立ったのが、2008年にガンバ大阪の代表取締役社長に就任した金森喜久男だ。チームが上り調子にある中で、前社長の佐野泉(16年逝去)から同年5月にバトンを受け継いだ金森 は、新たに向き合うことになった『スポーツビジネス』に大きな可能性を感じていたと聞く。
「松下電器産業株式会社(現パナソニック株式会社、以下パナソニックと表記)で仕事をしている時から、お客様の立場に立って仕事にあたることを信条としていましたが、それはスポーツビジネスにもあてはまるとことだと思っています。我々にとって大切なお客様の満足度をより追求することが、スポーツビジネスにおける成功への道だと考えています」
ところが、社長就任に先駆けた3月、初めて万博記念競技場に足を運んだ金森は、その雰囲気に愕然としたという。その日はAFCチャンピオンズリーグ(以下、ACL)の開幕戦が行われていた。
「大阪モノレール万博公園東口駅からスタジアムに向かって歩いていた時に、私を追い越していく親子連れの会話が耳に入ってきました。お子さんが『お母さん、早く行かないと試合が始まるよ。席が取れないよ』とお母さんの手を引っ張っていく姿を『試合を楽しみにしているんだな』と微笑ましく見ていました。その時お母さんが『大丈夫よ、ガラガラだから』とおっしゃったんです。そこで『ん? 開幕戦なのにそうなのか?』と。でも実際、足を進めてみると、約21000人収容のスタンドは3分の1くらいの人たちしか集まっていませんでした。もちろん、後になってJリーグの試合にはもっとたくさんの方にご来場いただいていることを知ったのですが、何せACLが私にとって初のサッカー観戦だったこともあり、その光景をすごく寂しく感じたのを覚えています。まして、スタジアムの周りをグルッと歩いてみたら、食事をする場所もなければ、出店もほぼない、と。過去に何度かプロ野球観戦をした時にその賑わいを体感していた私としては『野球とサッカーはこんなにも違うのか』と驚きました(金森)」
だが、その経験は逆に金森の『新スタジアム建設』への思いを強くさせる。着任以降、桑原を筆頭に社内からその必要性を訴える声が聞かれたことや、06年にクラブが初めてACLに参戦した際にアジアサッカー連盟(以下、AFC)から「築後約40年と老朽化が進んでいる現状のスタジアムでは今後、ACLでのホームスタジアムとしての利用を許可できない」と通達を受けていたことも理由になった。
「万博記念競技場で試合を観戦した時の第一印象は、お客さんが喜ぶスタジアムではないということでした。ゴール裏からピッチまで65メートルも離れ、メインスタンドからでも45メートルもの距離がある。スタジアム内にトイレも少なく、雨風を凌ぐ屋根もなくて、雨が降った日には皆さん、びしょ濡れになって応援されていました。そうした中でも、サポーターの皆さんをはじめとする応援の熱気は確かに伝わってきましたが、であればこそ余計にその皆さんに対して『サッカーを本当に楽しむスタジアムではない』と感じました(金森)」
また代表取締役社長に就任した直後に、埼玉スタジアム2〇〇2での浦和レッズ戦を観戦したこともその意を固めるきっかけの1つになった。
「埼スタのキャパシティもさることながら、専用スタジアム特有のものすごい臨場感もあり、ゴールのたびにスタジアム内に熱狂がこだましていました。ガンバが前半のうちに2点のリードを奪う展開になったのですが、ガンバのゴールではスタジアムが一瞬静まり返り、次の瞬間ガンバサポーターの歓喜の声が聞こえ、間をおいて浦和サポーターの大声援が沸き起こりスタジアムが息を吹き返すという繰り返しでした。その熱気と言ったらガンバのホームゲームの何倍ものも迫力でした。それを体感した時に『スタジアム』が『感動の差』につながっているように感じたんです。同じサッカーを楽しむにしてもスタジアムによって大きな違いがある、大阪にスタジアムを建設しようと決意が固まったのです。ただ一番の問題は、その費用ですよね。当然、莫大な費用がかかるのは承知していたので、その費用を捻出するスキームをいかに作るのかというところから、話が始まりました(金森)」
その最初のスキームづくりにおいて社内で陣頭指揮を執ったのが、金森、桑原に加え、経理部長を務めていた小川正美の3人だ。とはいえ、そのミーティングで初めて金森から「寄付金を集めて作るのはどうか」と提案された際、小川は正直に「現実的じゃない気がします」と考えを伝えたと聞く。ただ、金森から「可能性を探って欲しい」と声を掛けられたことや、小川自身もクラブ経営の安定化にはスタジアム関連収入を増やすことが不可欠だと考えていたこともあって、さまざまな模索を続けた。
「04年くらいまで続いていた累積損失による赤字が、Jリーグで初優勝した05年に初めて黒字になったんです。以来、チームが結果を残してくれたことにも助けられ、一度も赤字になったことはありませんでしたが、同時に毎年の収益の伸び幅を見たときに以前のスタジアムのままだと今以上の収益を求めるには限界があるということも感じていました。ですが、新スタジアムを自分たちで運営できるとなれば、毎試合ごとの施設利用料はいらなくなるし、収容人数が増えれば入場料収入やスタジアム広告収入の増加、それに伴うグッズや飲食などの売上アップも見込めます。何より、チームが右肩上がりに強くなっていたことも追い風に、当時はサポーターの皆さんの熱が年々高まっているのを感じていましたから。『新スタジアム』によってそれを更に加速させたいという思いもありました(小川)」
その話し合いの中で提案された、ある1つのスキームが金森の新スタジアム建設への思いを加速させる。
「小川から『スタジアム建設募金団体(以下、募金団体と表記)が寄付を募り、建設資金を調達して、国際試合を開催できる条件を整えた公共のスタジアムを建設し、それを自治体に寄付して、事業運営をガンバが担うという形なら可能かも知れない。それならば寄付した企業が募金を損金算入できるため、全額経費として認められる』と聞いて、企業の皆さんの寄付に対するハードルを下げられるかも知れないな、と。(金森)」
加えて、金森が真っ先に相談を持ちかけたパナソニック会長・中村邦夫に強く背中を押されたことも、その考えを確信へと近づけることになったという。そうして2008年7月。ガンバは正式に関西に国際試合を開催できる新スタジアム建設構想を発表した。2010年3月には、関西経済界、サッカー界、ガンバを中心とした募金団体が設立される。代表理事に就任した金森以下を筆頭に、Jリーグ初代チェアマン・川淵三郎(日本サッカー協会名誉会長)や鬼武健二(大阪府サッカー協会会長)、下妻博(関西経済連合会会長・住友金属会長)、森詳介(関西経済連合会会長・関西電力会長)らが名を連ねた。
「関西のサッカー界のみならず、スポーツ界全体を盛り上げ、更なる発展を目指すためにも、大阪にそのシンボルとなるようなスタジアムを建設したい。オペラにはオペラの観劇に相応しい劇場を求めるように、最高のサッカーシーンを生み出すには、専用のサッカースタジアムがいる。新スタジアムが、野球でいうところの『甲子園』のように多くの人々の心を一つにまとめ、心意気を作る大きな役割を果たす存在になっていければと思っています(金森)」
(文中敬称略)
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高村美砂●取材・文 text by Takamura Misa